代表所感 ~やまゆり園事件から10年~

代表のつぶやき

 いつもありがとうございます。7月も終わりとなり、連日40度に迫る厳しい酷暑が続いております。

 先日発生した熊本の震災では、今なお不安な避難生活を余儀なくされている被災地の皆様に、心よりお見舞いを申し上げます。また、先の震災により尊いお命を召された方々とご遺族の皆様に、深い哀悼の意を捧げます。

 この過酷な暑さの中、自発的な水分補給が困難な障害のある方々の体調が深く案じられます。自ら水分を摂ろうとされず声をかけなければ飲まない方、逆に加減が分からず一気にがぶ飲みしてしまう方など、多様な特性をお持ちの方々にとって、避難所という慣れない環境での酷暑は命に関わる深刻な問題です。

 東日本大震災の際、周囲に迷惑がかかるからと自ら避難所を立ち去る者、あるいは迷惑だと半ば追い出されるように出ていかざるを得ない者たちがいました。そうして障害のある方々が避難所から姿を消していった現実に「障害者を消すな」という悲痛な叫びが上がったことを、私たちは忘れえぬ教訓として深く胸に刻まねばなりません。私たちはあの経験から何を学び、いま目の前にある試練にどう応えているのでしょうか。

 また今夏、やまゆり園の惨事から10年という大きな節目を迎えました。当時、開所したばかりであった成人発達障害者の支援センターを運営していましたが、障害者を抹殺するという凄惨な事件の衝撃を受け、職員総出で支援していた利用者の方々と緊急の面談を行いました。

 そこで発せられた当事者の声は、今も私の心を強く揺さぶり続けています。「障害者というだけで人を殺すなんてとんでもない」という激しい怒りや、「障害者というだけで自分も殺されるのかもしれない」という切実な恐怖。そして何より深く胸を締め付けられたのは、「働いてもいない、何もできない自分は世の中に価値がない。亡くなった方々の代わりに、僕が殺されればよかったのかもしれない」と吐露する方が、決して一人ではなかったことです。

 安定した生活や働くことを目指し、共に一歩ずつ歩んできたつもりであった私たちが突きつけられたのは、彼らが抱える深い自己否定と、人知れず耐え忍んでいた痛切な苦しみでした。そのあまりにも重い吐露を目の前にして、私たちはこれまで一体何をやってきたのだろうかと、ただ天を仰ぎ、言葉を失うことしかできませんでした。

 あの痛ましい出来事を、一人の特殊な人間による特殊な事件として風化させてはなりません。また、これは重度障害のある方々だけに限られた問いでもありません。「生産性」や「役に立つかどうか」で人の価値を推し量ってしまう空気が、私たち社会の側に無自覚のうちに潜み、彼らを追い詰めてはいないのか。あの事件は、まさに私たちが今生きる社会のそうした一側面を白日の下にさらし、私たち自身に問いかけたものではなかったでしょうか。

 この10年、私たちは彼らの尊厳を守るために何を成し、何を見過ごしてきたのか。何ができ、何ができなかったのか。

 酷暑の厳しい折、奪われた多くの命と当事者の方々が受けた深い傷に思いを留め、誰もが自らの存在価値を疑うことなく安心して暮らせる社会の実現に向け、私たち一人ひとりが自らの歩みとまなざし、そして社会のあり方を苦しくも省みる省察の時を迎えているのかもしれません。

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